救いが必要な人は本当は誰もいないという視点によるサポート
私たちの本質は完全無欠であるという真理に基づけば、もとより救いなど必要とするわけもない。
ただ地球という舞台の上で救いが必要な弱者役を演じて、救われるという体験をしているだけだ。
役柄上は血を流していても、役者としては傷ついていない。
そればかりか嬉々として、その時間を楽しんでいる。
私たちの本質は、この傷ついていても傷ついていない役者のようなものだ。
しかし、役に没頭するあまり、役柄こそが自身なのだと錯覚しているとやがて懊悩が生じる。
私たちが悩みと呼んでいるものの正体はそれである。
錯覚がなければ、痛みは痛みでしかない。
「本質は、傷ついていても傷ついていない役者のようなもの」という視点で、救いが必要に見える対象を見直してみるとき、観察者の目は対象者のより本質的な部分にフォーカスしているはずである。
この焦点化は、それ以外に意図して何かをしなくても、癒やしや活性をもたらすことがある。
高次の視点で本質を見いだそうとする意識が、その人の本来的なエネルギーを顕現させるためだ。
別の見方をすれば、自分の意識が変わることで、心の映し絵である外の世界にも同様の変化が起こるともいえる。
いずれにしても、救いを必要としない本質に注目することで、結果的に救いがもたらされるというパラドックスが起こりうる。
この方法なら、どこまで手を貸してよいのかわからない、依存されたら困る、救うことで傲慢に陥るかもしれないなどという懸念も全く要らない。
好転してもしなくてもOKだと、結果に執着することもなくなるだろう。
念のために言っておくと、この話は三次元的なサポートを否定するものでは全くない。
いくら役の上で流血しているとしても、私たちが多次元体である以上、肉体面では強い痛みを感じるのだし、命に危険が及ぶこともあるのだから、物理的な手当てはもちろん必要だ。
むしろほとんどの場合、低次における対処は真っ先にあるべきものだろう。
だが、三次元的・四次元的なアプローチに限界を感じたなら、多次元を包括する「本質的な視点」で捉え直してみたい。
演じている役から相手を解き放つことは、シンプルにしてパワフルな変容につながる。
彼にだけではなく、自分自身にもそれは起こりうるのだ。